連載エッセイ47
過ちは繰り返してはならない
横路 由美子

 3月11日、東日本を襲った大地震、大津波そして原発に起因する大災害、日本中の人々いや世界の人々に悲しみと祈りを広げた。
 津波ですべてを流され、家族まで失った人たち、呆然とがれきの中に立ち尽くす姿に涙がこぼれた。それは、戦争中の大空襲、ヒロシマ・ナガサキで失われた全ての命に思いが重なっていく。

 3月末、たくさんの震災関係の情報の嵐の中、小さな死亡記事に目がとまった。生物物理学の権威、西脇ウィーン大学名誉教授は、第五福竜丸の被ばくをいち早く問題にして世界に反核運動の波を広げたとその死を悼んだ記事であった。
 「第五福竜丸事件」とは、焼津港を出航して南太平洋マーシャル諸島近海で操業していたまぐろ漁船が、1954年3月1日、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験の降灰を受け23人の乗組員全員が被ばくした事件である。この水域の水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻、被ばく者も2万人と言われている。半年後に久保山愛吉無線長(当時40才)は「原水爆による犠牲者は私で最後にして欲しい」という言葉を残して亡くなった。私が小学校6年生になる春のことだった。
 数年前、福岡の小学校のクラス会をした時、「そういえばあの時、由美ちゃん、水爆実験で島を追われた鳥たちの童話を書いたね」と当時の担任の先生から言われて、遠い記憶を思い起こした。クラス会で呼び起こされた記憶をたどって3年前の夏のある日、思い立って、東京木場のごみ埋め立て地、通称「夢の島」にある東京都立第五福竜丸展示館を一人で訪ねた。ちょうど小学校の子供たちが100人ほど見学に来ていて、ボランティアで詰めている元学校の先生達の説明を受けていた。当時の新聞なども展示されていて、「放射能マグロ」の大量廃棄や風評被害を含む魚類の消費の落ち込みなどが大きなニュースになっていた。
 ビキニ環礁の島々では今もなお後遺症に悩み、故郷の島を島民まるごと離島した人々もいる。まさにいまの「フクシマ」と重なってしまう。

 ヒロシマ・ナガサキの後、東西冷戦下、人類は、この地球を何十回も破滅させられるほどの核、核兵器を持つように競争をしてきた。一方で「原子力の平和利用」はその対極にあるものとして「核アレルギー」のある日本にアメリカが狙い撃ちを懸けてきたのは周知の事実である。
 その結果1950年代後半からの政財界一体の「原子力の平和利用」、大学、研究者マスコミなど挙げての原子力発電の推進が行われる。交付金、補助金や電力会社との癒着が深化、「原子力村」と揶揄されるグループが出来上がり、異なる意見を持つ者はことごとく排除された。
 福島の原子炉マークIは、アメリカのGEがその2年前から作りはじめて、早くも67年に福島で導入されたものであった。格納容器が小さく、燃料棒に異変が起こり冷却できなくなると、爆発が起こるという指摘があったものである。科学は想定外を考える所から始まるのだが、「まず想定の枠を決め想定外は考えない」思考が蔓延した。安全性はコストの範囲内で考えられた。冷却装置の電源が失われる事も燃料棒のメルトダウンも水素爆発もすべて日本では起こり得ない想定外なのであった。いつのまにかこの狭い日本に54基もの原発が存在する事になってしまった。
 「福島」の今回の事故では、空気のみならず、水、大地を汚染し、それは風や雨で更に広がり人間を含むたくさんの動植物を巻き込んでいる。

 原発現場で被ばくを余儀なくされて昼夜を分かたず過酷の労働条件のもとに働いている人たち。この労働の実態は70年代に堀江邦夫さんによって書かれた「原発労働記(旧名原発ジプシー)」とほとんど変わらないという。直接事故から出た放射性物質はもちろん、冷却水やがれき、作業服など、今回排出された(そして今も続いている)放射性廃棄物の量を思っただけでも胸がいっぱいになる。
 原発は当初から「トイレなきマンション」と言われてきた。人糞ならまだしも、放射性廃棄物の毒性と持続性は長く強く遺伝子まで破壊し、半減期に30年、2万4000年もかかるものが在る。
 『10万年後の安全』というフィンランドの映画を見たが、フィンランドでは18億年かかってできた固い岩盤の中に100年かけて原発の廃棄物を埋めるという。世界の国々でそこ以外に処分場は決まっていない。人類の現在そして未来の幾世代までツケを残す今の原子力エネルギーに私たちは依存していいものだろうか。

 このように、解決できない廃棄物の処理。海や大気、大地に放射性物質が出る仕組み。被ばくを余儀なくされる労働の存在。より安全な原発を造るために使われる大量のエネルギーや資源。いったん大事故が起こればその回復にかかる費用と年月は莫大なものとなること(永久に回復不可能な部分もある)などを考えると、決して原発が安価で安全でクリーンとは言えない事は明らかである。
 そしてそれらは何よりも命の存続に直結する問題なのである。人間の行動も自然の猛威も想定外が常に存在する事を肝に銘じたいものだ。まして、地震と津波にさらされてきた日本で、危険性は常に想定内である事に思いをいたし、根本から原発政策の転換を私は求めていきたい。外国への輸出も止めてほしい。

 10年前、市民風車第1号「はまかぜちゃん」を浜頓別に建てる時、ささやかな出資をした。期待もしていなかったのに、お金も半分まで返ってきた。我が家の太陽光発電は、この1ヶ月で約420キロワットを超え、家で使う電気の2倍弱を発電したことになり、「お日様」の力にあらためて感服している。
 あまりにも犠牲の大きかった東日本大震災だったが、苦しくて大変な時だからこそ、日々の生活のあり方を足元から見直し、大胆な政策転換を求めたい。






エッセイNへ インデックスへ