連載エッセイ43
健康な人生を返して下さい
横路 由美子

 長崎で「原爆が落とされたのもしかたがない」と発言した久間章生元防衛大臣に対し「命が大事」と闘いを挑み、先の総選挙で当選したのが、薬害肝炎九州訴訟に実名で原告団長になり頑張ってきた29才の福田衣里子さんである。
 彼女はウイルスに感染したフィブリノゲンという血液製剤の輸血を、母親が出産時に受けたことが原因で肝炎になった。集団予防注射など、注射針の使いまわしが感染を広げた事例も多い。

 キノホルム(スモン)、サリドマイド, HIV(薬害エイズ)、薬害ヤコブ病そしてウイルス性肝炎・・・・表に出てきたものだけでも薬害が後を絶たない。
 危険性を知りながら国や製薬会社が直ちに使用や販売を禁止しなかったために広がったものばかりで、薬害は命を粗末に扱った人為的犯罪である。製薬会社、厚生省、学者等の癒着や天下りがその温床となったといえる。

 スモンの会の全国議長は、私たちの長い間の友人である稲垣恵子さんである。
 彼女がまだ20代の後半、2人目の赤ちゃんを妊娠した時のこと、ちょっとお腹の調子を悪くして、妊娠中ではあるし大事をとって、近くの個人病院に行った。
 元来、あまり医者にも掛かったこともなかったし、言われた通り薬を飲んだが、症状はひどくなる。なお薬を飲む。下痢はひどくなり、両足に冷感を感じるようになった。
 何とか無事、元気な女の赤ちゃんを授かったが、出産後、北大病院に行き、2月半ばから再び整腸剤を投薬された。次第にしびれがひどくなり、歩行が困難になって7月に入院。更に薬の量が増え全く歩行が不可能となった。
 それがキノホルムの薬害と認定されたのは9年後である。
 40年余、神経への浸食が一段と進み、今は通常は車椅子、両手で運転できる車とコンピューターを駆使して、北海道のみならず全国のスモン患者のために走り回っておられる。

 スモンは1955年頃から発生が見られたが、特に多くなったのが1967年から68年にかけてであり、全国的には、一万人を超す。
 日本中の大学病院などで処方されたため大量の患者が出て社会の注目を集め、原因不明で「風土病」「奇病」として恐れられた。下痢、痺れ、冷感、痛みが広がり失明に至った患者さんも少なくない。
 ウイルス説が流布されたりして、周りから隔離、差別を受けたり自殺者も相次いだ。この間の患者さん、家族の人たちの苦しみは筆舌に尽くし難い。

 キノホルムの歴史は長く、日本では1936年に劇薬として指定されていた。すでに1935年に製薬会社のチバガイギーは、キノホルムによる神経障害の例を知っていたが、その3年後に劇薬指定を解除、腸チフスなどの治療から拡大解釈、腸関連普通薬として使われてきた。
 1961年、アメリカでは適応症が規制されたが、日本では1956年以降むしろ一般胃腸疾患に適応を拡大していった。その時点で注意を喚起して劇薬指定していればスモンの発生は最低に抑えられたに違いない。

 スモン裁判は全国33地裁、8高裁で闘われ、国会闘争も不自由な体で患者さん自ら先頭に立ち、薬事法の改正ももたらした。

 北海道スモンの会の立派なのは、和解金でスモン基金を作り、全道の患者さんの訪問看護をしたり症例によって針灸治療を行って、更にその相談対象者を神経障害で苦しむ人たちに広げている事である。
 当初から稲垣さんの運動を支えてこられた患者さんの一人に池田ミチヨさんが居る。キュウピーやブローチ等の支援グッズもたくさん手作りをしてくれた。重症で今は寝たきり状態だが、ユーモアいっぱいの闘病生活に、見舞いに行く方が励まされる。

 15年ほど前、稲垣さんと池田さんが知事公館の庭で日光浴。「私、スモンになってよかったのよね。こんなに仲良しの生涯の同志になれたのだもの」。池田さんの言葉に私たちは胸詰まる思いで、涙目で笑いあったものである。

 「ノーモア、スモン、ノーモア薬害」と生涯をかけて薬害根絶を訴えてきた患者さん達。
 新しい政権は、命を最優先して頑張って欲しい。





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