連載エッセイ35
愛しき母よ
横路 由美子

 横路と結婚した次の年に、父横路節雄が突然亡くなった。当時、私は大学院の学生、夫は司法修習生で、生まれたばかりの長男と埼玉県浦和のアパート暮らしだった。
 突然伴侶を亡くした母の嘆きは深く、若くて慰めるすべも知らなかった私たちは、赤ん坊がいれば気の紛れることもあるかと、長男を連れて札幌の母のもとにやってきた。
 それ以来40年、ほとんどの年月を一緒に苦楽を共にしてきた。思えば九州の自分の母と暮らした年月の倍以上である。

 横路がその3年後、衆議院選挙に出ることになってからは、嫁姑というより文字どおり同志であったと言ってよい。たくさんのことを教え助けてもらい、一番の応援者であってくれた。
 3人の孫たちともオセロやトランプに興じ、クラブ活動で「帰りが遅い」などとやりあってもみんな「おばあちゃん大好き」に育ってくれた。
 母が作ってくれた料理はとても美味しかったし、お正月の「おでん」は米寿の年まで、自分が先頭に立たなければ気が済まなかった。選挙関係ばかりでなく日中友好協会や同窓会のことでも何事もいい加減にできない質であった。

 そんな母が、米寿を過ぎた頃から異常に物事にこだわったり不安がったりし始めた。主治医の先生からは「もう充分働いてこられたのだから、無理しないで、年齢と折りあって気持ちをゆったりされると不安感がなくなりますよ」と言われていた。
 私が出かけるとなると「何時に帰るか、何の用事か」と細かに問いただし、出先にも頻繁に電話をかけてくる。テレビで報じられる事件や事故が、自分や自分の家族にも降りかかるが如く心配する。
 そのうち、「頼まれた原稿が書けない」と言ってうつ状態になり、せっかく孫やひ孫を交えてジンギスカンを食べに行こうなどと誘っても「行きたくない」と言うようになった。
 何十回も引き出しやバッグを開けたり閉めたり、洋服の着方が分からなくなったりして私を驚かせた。
 春に尻餅をついて背中を圧迫骨折、3週間の入院を余儀なくされてからは幻覚が起こるようになり、家で看ていても気の休まる時が無くなった。
 眠るのも母のベッドの近くに移し、風呂も子供達の小さい時にしたように、まず私が裸になり次に母を脱がせ一緒に入って終ると、また私が裸のままで母に寝間着を着せるという手順になった。
 どうしても私が家を空けなければならない時は、近くに住む4番目の弟夫婦や埼玉から3番目の弟夫婦に泊りに来てもらった。
 こうして外に向けては、2つ3つを除いて大きな破綻もなく過ぎてきたのだが、珍しく10月7日の横路後援会の「秋の集い」に出ると言う。参加者からバラの花束を戴いたりしてご機嫌で無事大役を果たし、私たちもほっとした。

 次の日の夜、風呂から上がった母がぐったりしている。長湯のせいで血糖値が下がったのかと思い、蜂蜜を舐めさせ、夫と2人がかりでベッドに寝かせた。
 次の朝、いつものように起こして着替えをさせて朝ご飯となったが、どうもお箸の持ち方がおかしい。ご飯もおかずも箸にかからない。スプーンに持ち替えても同じ。
 そのうち周りを見て数人の客がいるが如く「皆様もどうぞ遠慮せずに召し上がれ」と言っている。午後になると一段と幻覚幻聴がひどくなり、ひとりで座談会を取り仕切っている模様である。はっきりとした口調で「まず、ご高齢の方からどうぞ」「若い方ご発言を」「赤ちゃんを連れて石狩からいらしたの?」などと1時間でも立ちっぱなしである。
 病院に連れて行き頭部のCTを撮ると、広範囲に脳内出血が見られ直ちに入院となった。
 それから約1ヵ月、薬を使ったにもかかわらず夜中でもその行動はおさまらず、弟たちの助けも借りて24時間の看護体制をつくり、母の「夢」や「思い出」に付き合った。
 母の記憶は主として2つの時期に限られ、結婚前の思春期の時代と、10年くらい前の中国旅行や選挙に関わる行動や発言がみられた。
 戦前、大学生の軍事教練に反対し、治安維持法の初めての適用で逮捕された実兄のことを「野呂栄太郎は破廉恥罪で捕まったわけではありません。私たち姉妹はうつむかず凛として暮らさなければなりません」と言ったり、小学校の教師時代のことだろうか職員会議を開いているらしく「子供には愛情が必要です。この案に賛成の方は?」と言ったり、まるで何幕もの劇を見るようであった。
 それでいて毎日そばについている私や弟夫婦のことを、ボランティアさんとかあなた様とか先生とか呼んだりした。

 病院の皆さんは昼夜を問わず、母はもちろんのこと私たち家族を励まし支えて、本当に良くして下さった。しかし病院は他の患者さんに迷惑をかけられないので母の行動を抑止せざるを得ない。
 これ以上病院に置くことは母に酷と判断し、倒れる寸前の私と母の状況を見て、兄弟たち皆で話し合ってくれて、当面、専門のグループホームのお世話になることになった。
 介護の責任者の方が「まず睡眠薬から脱却しましょう。私たちはいつも徹夜で看ていますから。そうしたら足もフラフラしなくなるし生活能力もついてきますよ」と言ってくれて本当にありがたいと思った。

 一歩一歩自分の世界を作ろうとしている母。私を慕わしい人と感じながらも私を忘れていく母。限りなく母は愛しい。
 どんなに周りから慰められても私は自分の力不足が悲しく、専門家から「一番いい療養のあり方です」と言われても涙が溢れてくる。
 病人に接する看護師さんやヘルパーさん達の働きを身近に見て、充分に休息できる労働条件が整ってなければ、子供を育てながら働くのも、自ら健康を保つのも、人に対して心から優しくできるのも、超人的な努力が要ることを痛感した。
 介護の社会化が言われて久しいが、職場や家庭を問わず介護人をサポートする制度の充実、特に夜間に働く人達の手厚い人員の配置は、弱い立場に立つ介護される人にとっても火急の課題である。
 また、これまで以上に少子高齢社会が進み、「老々介護」や「ひとり暮らしの老人世帯」が増える中、療養型のベッド数を減らすことや、「在宅介護が一番」と言うような価値観だけでは対処できないと思う。
 人の老い方には共通項もたくさんあるけれど、極めて「個性的でもある」ということを、今しみじみと感じている。

 (注:このエッセイは2006年末に書かれたものです)




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