連載エッセイ22
人々を結ぶ芸術の力
横路 由美子

 娘の由希子が中学と高校時代、部活で演劇部に所属していた。そのおかげで私も演劇への興味関心が開かれたようで、結構今も観劇を楽しんでいる。
 今もそうなのかわからないが、高校演劇は毎年、教育文化会館でぶっ通し3日間、朝9時から夜9時まで1高校1時間の割り当てでコンクールが行われていた。演じる高校生も学校の試験にぶつかったりして四苦八苦していたが、審査の先生方も一日中缶詰めでご苦労だなあと感心していた。
 当時の卒業生や先生たち、札幌の演劇を愛する人たちが集まって「森の会」を作り芸術の森などで公演をしている。今年の夏は、ユジノサハリンスクに行ってロシアの人々に共感の輪を広げた。

 5〜6年前のこと、栗山高校のS先生から横路の母のところへ「うちの演劇部で野呂栄太郎さんのことをやりますのでぜひ見に来て下さい。脚本は私が書きましたので批評もお願いします」というお誘いがあった。母の一番上の兄にあたる野呂栄太郎をテーマに、野呂家のふるさと長沼や栗山に住む高校生が演じるというのだから、9人兄弟で今は末の3姉妹だけ残ってしまった母の姉妹と姪や甥、その連れあいの私などが喜んで公演会場へ駆けつけた。

 時は今から90年も前の1914年、大正3年の話である。長沼南尋常高等小学校を卒業した野呂栄太郎は、北海道庁立札幌第一中学校を受験するが不合格となった。次の年、再度受験、成績優秀にもかかわらずまたしても不合格となり、不審に思った父親が学校を訪ね、体の不自由な生徒は入学させない方針ということがわかるというのが劇の主たる顛末である。
 榮太郎は小学校2年生の時に足を骨折、骨髄炎を起こし、それがこじれて2年後に右足膝下より切断、義足をつけていた。明治以降、日清日露戦争を経て、富国強兵の道を突き進んでいた日本にとって官立学校は「お国の役に立つ人材」養成が目的で、身体に障害を持つ者は受け入れ難かったのであろう。
 舞台にコツコツと響く義足の音、凛とした母親。凶作で苦しむ小作農たちに優しく接する父親…。幼い頃の情景を思い出して、舞台を見ながら母たち姉妹は涙ぐんでいた。

 榮太郎は私立北海中学に入学、慶応大学へと進み、結核と闘いながら小泉信三、羽仁五郎、岩波茂雄などの応援を得て『日本資本主義発達史』をはじめ後世に残る経済学者としての学問を積む。時あたかも治安維持法が作られ、真っ直ぐ太平洋戦争に突き進む前夜、軍事教練反対の京都学連事件で治安維持法違反第一号として逮捕される。1934年、拘留中の品川警察署で倒れ、33歳という若さでこの世を去った。
 栗山高校の演劇では、榮太郎の中学入試前後だけにスポットをあてたものであったが、迫りくる戦争の時代背景も、饒舌ではなく静かに観客に沁みてくる感動的な舞台であった。

 今年の夏の私の芸術的収穫といえば、「札幌芸術の森」で開催されたレームブルック展を観たことであった。ドイツ出身、第一次世界大戦の頃の彫刻家。<ひざまずく女><母と子><考える男の首><くず折れる兵士><恋人達>そして<祈る女>。いずれも大きな衝撃を受けるほど、インパクトの強いものであった。
 戦争中は看護兵として傷病兵の看護に当たり、人間の叡智の結晶である近代技術が大量殺戮をもたらしている現実に打ちのめされる。命を奪われ、家族が引き裂かれる過酷な現実を前に、芸術の意味を問い、苦しみ、1919年、38歳で自ら命を絶つ。その死後、ナチス時代には戦争に批判的で暗いということで「退廃的芸術」として烙印を押された。
 今、世界の現状を思う時、彼の彫刻は、現代人類の深い危機に根源的な問いと祈りを発しているように思えた。

 人には、音楽、演劇、舞踏、映像、小説、詩作、彫刻、絵画、陶芸、書、花、建築などなど、様々な芸術活動を営み、何かを表現しなくてはいられない根源的な欲求のようなものがある。と同時に、それを感受する人々に感動や感性の共鳴を生み出していく力は不思議なほど大きい。
 札幌も北海道も、芸術の発信力あるすてきな地域になってほしいし、それが人々を、世代を超え、時代を超え、民族を超えて結んでいくのではないかと思う。




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