連載エッセイ21
いつか来た道
横路 由美子

 今回の統一地方選挙は札幌市長選挙が再選挙になったこともあって、私にはとても長く辛いものに思えたが、本当にたくさんのボランティアの昼夜休みを分かたぬ熱意と真心に支えられ、希望を持ちつづけることの大切さを学んだ日々であった。

 そんな中、5月の休日に私の小学校6年生のクラス会(福岡市立警固小学校)が九州、阿蘇の温泉町で開かれた。何しろ還暦を記念して2年がかりで計画され、忙しい私のことも考慮して4月の統一選挙が終ってからとわざわざ設定された日程だったので(まさか再選挙になるとは)、キャンセルもできず、一日のために飛行機で往復することになった。文字どおり私にとって命の洗濯、珠玉の一日であった。

 半世紀を経て会う友ども、それぞれの仕事や家族、生活のしがらみや苦労を抱えたり乗り越えたりしながら、幼い頃の性格などあまり変わらないことを実感、童心に戻って語りあった。
 阿蘇の外輪山の山並みの美しさ、自生するミヤマキリシマで赤紫に覆われた丘、牛の群れが草をはむ放牧地…。岩のごつごつした露天風呂に女性参加者六人、満月に近い朧月を見ながら、あっという間に過ぎた人生、一緒に裸の付き合いのできる幸せでいっぱいになった。
 「私の父は、いつ死んだかわからないのよね。沖縄の激戦の日、6月4日ということになっていて、遺骨が白い布に包まれて帰ってきた時、あまりの軽さに、母とおばあちゃんが開けてみるといったら祖父がとても怒ったの。でも後でこっそり開けたら何にも入っていなかったのよ」。
 もうひとりの友はこの春、小学校の教師を定年退職、彼女のお母さんも「戦争未亡人」で私たちが小学生の頃先生をしていらした。
 「うちの父は中国で死んだのよ」
 「Sさんも、お父さんいなかったよね」。
 1年生の頃の校舎は爆風で窓ガラスが無かったとか、校舎が足りなくて二部授業だったとか、戦争の影を思い出す時でもあった。

 阿蘇の外輪山の周辺は母の生まれ故郷でもある。建築設計技師の父と東京で知り合って結婚、昭和10年代をソウルで過ごした。敗戦、植民地の崩壊、昭和20年10月の末、両親は、姉、兄、私の3人の子供を連れて熊本の母の里を目指して引き揚げてくるのだが、その途中で息子を亡くすことになる。
 89歳で急逝した父は、その5年前に覚えたてのワープロで自分史を作った。敗戦を境に、着の身着のまま、一人息子まで失ったばかりでなく、特に朝鮮での最後の3年間の自分の仕事に戸惑い、国の言う大義や正義のまやかしを心底知ることになって、阿蘇の自然と人情が自分達の心をどんなに癒し励ましてくれたかを書いている。

 クラス会の友達を乗せたマイクロバスが、高森峠にさしかかる。父は母の里に着いて間もなく、高森の親戚に届けるように祖母から預かった米を背負い、この道を今の清和村から歩いてきたのだと、胸が熱くなった。
 「15キロの道を歩いて峠の上に着きました。時間はもう5時半です。峠の石に腰をおろして南郷谷を見下ろすと高森の町は目の下です。町まではほとんどまっすぐな一本道です。そして遠く阿蘇の山々を見ると夕焼けに耀いて見事な景観です。刻々と変わる山の輝きに見とれて時間のたつのも忘れ座っていました。じっとしているといろんなことが想い浮かびます。死んだ徹也のこと、朝鮮での暮らし、亡くなった父のこと…。多くの人から受けた愛情、この先出遭うであろうやり直しの生活など次から次へと沸き立ってきました。ずいぶん長い間座っていました。今まで胸の中にしまっていたモヤモヤがこの美しい景色を見ているうちにすっかり洗い流され、心の中がすっきりとして元気になりました。気がついてみますともう日も暮れて、阿蘇の山々も星空の中です。高森の町は明るく耀いていました。ふたたびリュックを担いで一気に峠を駆け下りて高森に着きました」。

 明治に生まれ、大正、昭和を駆け抜けた両親たちの世代。他国の人たちを犠牲にした太平洋戦争の大きな苦しみと悲しみに思いを馳せたクラス会であった。そして私たちは今、歴史のどのような地点に立っているのであろうか。いつか来た道の気配が満ちてくるようだ。




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