連載エッセイL
福岡のこと、そして戦後の思い出
横路 由美子

 私は昭和17年に韓国のソウル(京城)で生まれた。建築設計技師であった父は10年余り朝鮮半島で仕事をしたことになる。大きくなるにつれ、朝鮮半島の歴史、朝鮮民族の悲しみを知り、私の社会への関心の核となった。

 昭和20年10月、興安丸で博多港に引き揚げてきた。私はまだ母の背中に負ぶさった3才の幼児で記憶がないのだが、途中、6才の一人息子を亡くし茫然自失、癒しがたい悲しみを背負いながら、無一文の一家は母の里、熊本の矢部町に向かった。2,3年、農業や大工仕事を手伝いながら英気を養い、昭和23年、何のご縁もなかった福岡に出て行った。幸いにして、技術を持った父は戦後の復興期、夜なべ仕事をしても追いつかないほどの忙しさだった。
 小学校は春吉小学校、75人ものすし詰め学級。入学のときの集合写真を見ると、何人かは裸足、校舎の窓ガラスはほとんどが壊れている。戦後4年経ち、空襲にあった都市で暖かい地方はこんな状況だったのかと、あらためて驚いている。

 父の手作りのランドセルで通った。学校ではシラミの検査があり、学校に風呂敷きを持っていって肩からケープのようにかけ、真っ白になるまでDDTをかけられた。家の前の路地には、紙芝居屋が水飴や酢昆布を自転車に積んでやってきた。題目は「黄金バット」だったろうか。夕方になると、空き家の壁からコウモリが一斉に飛び立った。軒先にはツバメの巣もあった。お手洗いの横には、枇杷やイチジクの木があったし、隣の庭にはザクロの大きな木があった。お隣の妙子ちゃんのお父さんは戦争から帰ってこなくて、おじいちゃんとお母さんと暮らしていたが、暗い茶の間のちゃぶ台にイワシの煮付けがいつもあったことや、蝿取りの油紙が天井からぶら下がっていたことなどをよく憶えている。父の器用に作ってくれたカルメ焼き、母がイースト菌で焼いてくれたパン、毎朝、削り節をカシャカシャと削らされたこと、すべてが懐かしい。
 2年生になった昭和25年の秋、薬院に新しい家が建った。真っ赤な片流れの屋根、吹き抜けの居間のある目立つ家であった。玄関には小さいながらイタリア製のステンドグラスが入っていた。建築設計技師の父が知恵を絞って、安くて住みやすいモダンな家を考えたので、建築雑誌に写真が載ったりした。

 当時はまだ焼け野原のまま草が生い茂り、私たち子どもは大きな紅葉の木でよくターザンごっこをした。学校も警固小学校に転校した。地域差もあって、勉強に追いつくのに苦労した。校庭には二宮金次郎の薪を背負った銅像があった。ラジオが一家の娯楽の中心で、「笛吹童子」「白馬の騎士」「二十の扉」など楽しんで聞いた。いつも番組の終わりに「尋ね人の時間」というのがあって、「旧満州、ハルピンから引き揚げの○○さん」とか「771部隊のチチハルで別れた○○さん」という声の調子の物悲しさが子供心に響いた。
 友達の家のまわりには昭和30年ごろまでは田んぼが結構あり、横端の小さな川にはザリガニやメダカがいて、学校帰りに捕まえて遊んだ。夏には蚊帳を吊り、夜、蛍を飛ばしたことも懐かしい。
 こうやってパソコンに向かっていると、次から次へ走馬灯のように懐かしい場所、親しかった人々が浮かんでくる。今や両親も亡くなってしまって、本当に寂しくなった。

 北海道に住むようになって34年の月日が流れた。そのうち、夫が最初の2年間の弁護士生活を除いて政治活動をしていたので、残りの32年間は誠に心の休まらない日々であった。特に子供たちの学校が休みのとき、夫が東京から地元に帰ってきて忙しく、なかなか実家に帰れなかったことを、こうして両親が亡くなってしまってから後悔している。

 北海道は四季がはっきりしていて、それぞれの地域の素晴らしさも食べ物の美味しさも自慢できる。でも「今やもう、すっかり北海道人ですね」とあらためて言われると「それは、ちょっと違う」と言いたくなる。九州にもたくさんの素晴らしいところ、美味しい食べ物がある。何よりも幼い頃の思い出がある。そして年とともにキューンとなるような、懐かしさがこみ上げてくるのは帰巣本能だろうか、ついに私も生まれた川を目指す、鮭になったようである。