行動の先頭に立って闘う!

2004年 よこみち孝弘と新年交礼会 あいさつ

 

 明けましておめでとうございます。昨年秋の総選挙ではたくさんの皆さんのあたたかいご支援を頂きましたことを心から感謝申し上げたいと思います。本当にどうもありがとうございました。
 昨年は選挙に次ぐ選挙でしたが、その中で上田市政を誕生させることができました。
 また総選挙では177名当選しましたが、そのうち小選挙区で当選したのは105名です。300小選挙区ですから、やはりここで過半数の勝利を収めなければなりません。ですから比例区で当選した72名のうち、50名の方が小選挙区で当選すれば政権交代できるわけでして、そのための大変大事な年を迎えたと思っております。
 そしてそのための大事な闘いがこの7月の参議院選挙で、峰崎さんが選挙区で、そして信田さんが北海道重点候補として比例区で頑張りますし、その他にも全国でたくさんの候補がおりますので、皆さんのご支援を心からお願い申し上げたいと思います。

 今年一年どんな年になるかと考えますと、経済は良くなってきたと言われてますが、地方にはその実感が全くありません。それはもう皆さん方ご存じの通りです。
 中国やアメリカに対する輸出が伸びたことと、大企業がリストラによって企業体質を変えたということが数字になって若干表れていますが、そういうリストラの結果、失業者やフリーターが溜まりに溜まって、雇用が非常に不安定になっています。
 最近の大きな特徴は、高齢者の貯蓄の取り崩しが始まっているということと、30〜40歳代の人々の貯蓄率が非常に下がってきているということで社会の二極化が進んでいます。その結果、経済を6割以上支えている消費が伸びて景気が自動的に回転していくというところまではまだいっていません。こういうときはそれぞれが希望をもって、宮本武蔵ではありませんけれども「運は天にあり、勝機は己にあり」ということで一人一人が頑張るしかないかなと思っております。

挨拶に立つ横路孝弘 今日はちょうど陸上自衛隊の先遣部隊の派遣命令が出たということでありますので、この問題について私の考えを述べさせて頂きたいと思います。
 イラクに対する戦争というのは、国連のアナン事務総長も言っておられるように国連憲章に反する、予防戦争は認められない、言わば大儀なき闘いなんですね。大量破壊兵器を理由にして戦争をやった結果、兵器はいまだ見つからず、そのためにイラクにおける調査部隊をアメリカは撤退させる状況にまでなっているわけですが、この戦争を小泉さんはいち早く支持し、連日戦闘行為が行なわれて毎日たくさんのアメリカ兵やその他多くの死傷者が生まれている状況の中に自衛隊を派遣しようとしています。
 このことが今の憲法下で認められるとするならば、イラク以外のどこへでも、朝鮮半島であろうと台湾海峡であろうと出してしまうということになってしまうのです。
 アメリカのアーミテージ国務副長官が最近こういうことを言っています。「日本とアメリカの関係は、アメリカとイギリスとの関係のようにしていかなくてはいけない。世界戦略を共に語り、共に一致して行動する、そういう日本とアメリカのあり方にしたい」
 アメリカはこの50年間、アメリカの考え方で世界中に軍隊を派遣して、自国の利益に関することならばどんな政権とも手を結び、ほぼ毎年どこかで戦争や軍事的な展開をしているのです。そういうアメリカの軍隊と日本の自衛隊が一緒になって行動するということは大変なことなのです。もともと日本はアメリカの保護領ではないかというようなことを言う人がだんだん増えてきていますが、こんなことを絶対許してはならないと思っております。アメリカの言うがまま、言わばその手先になりかねないという状況なのです。

 イラクへの自衛隊派遣の問題が出てきてから、隊員の家族の方々からたくさんの電話を頂きました。中でもこんな電話がありました。息子さんがイラクへ行くというお父さんからの電話ですけれども、「孫と遊んでいると息子のことを考えて涙が出てくる」と。それで孫から「どうしておじいちゃんは泣いてるの?」と言われても説明することができないと言って、電話の向こうで泣いておられたお父さんがおられました。
 私は今の状況を見て、私の父、横路節雄のことを思い出しておりました。
 私の父の教え子に金内忠雄さんという方がおられまして、その人が「青春の記録、比島(フィリピン島)山中敗走記」というのを冊子にして送ってくれたんです。この人は造船の技術者で、海軍の士官として佐世保で仕事をしているときにフィリピンに行けという命令が下り、その前に札幌に帰る機会が与えられたのは昭和19年3月のこと。
「故郷札幌の親元に帰った。札幌の我が家には母親や弟、妹と共に、小学校時代の恩師である横路先生が私を待っていて下さった。
 先生は師範学校を卒業されてすぐ幌西小学校、私たち4年生の担任になられた。その5月に私は父を亡くしたが、先生も父を亡くされた直後だったので、何かと私に特別の配慮をして頂くことが多かった。
 その夜、いろいろ話したいからと私の家に泊まって下さり、遅くまで語り合った。最後に先生は『これだけは守ってほしい。君の任務は艦船を修理することで、部下も技術者のようだ。日本にとっては大切な技術者ばかりだ。命を無駄にしないように、大切にして必ず帰って来るんだ』ということを強く言われた」
 その後、金内さんはフィリピンのキャビテに行くのですが、アメリカがフィリピンに上陸してからは、昭和20年8月までルソン島の中を逃げまわったのです。途中あちこちで集団自決している日本人を見たそうです。あるときに「もう無理だから」といってみんなで集団自決しようというようなことを隊の責任者から言われたときに、金内さんは「命を大事にしろ」と言われたことを思い起こして、「何とか転進しましょう」と隊長を説得して、そして終戦を迎えて無事に帰って来られたのです。
 金内さんは最後に「『命を無駄にするな。必ず生きて帰るんだ』と、フィリピンにおける苦闘の中で常に私を支えてくれた先生の教えを、祖国の地を踏んだ今、改めて心に噛みしめた」と結んでおられます。このとき私の父は33歳、金内さんは22歳。
 帰って来られてから造船会社でお仕事をされ、そして社長になり、引退された後、この冊子を私のところに送ってくれました。

 あの戦争で日本人は313万人亡くなったんです。アジアでは2000万人以上の方が亡くなりました。313万人のうち240万人の方が軍人軍属なんですね。そのうち120万人の遺骨がまだ返ってきていないのです。
 硫黄島では2万5千人の日本兵が亡くなりましたが、遺骨収集できたのは約1万2千人だけなんですね。まだ半分の遺骨があの島に残っているのです。そこに日本政府は飛行場を作り、米軍に提供して、米軍はそこで訓練を行なっている状態なのです。
 日本政府は自衛隊をイラク派遣するのではなくて、本当はこの遺骨収集をもっとまじめにしっかりしなければならないと思います。
 今回どうしても政府の命令に従って行かざるを得ない隊員の皆さんもいるわけですが、何とか死なず殺さずして帰って来てもらいたいというように思っています。
 今朝の新聞によりますと「ためらわずに撃つ」という訓練をしているようですけれども、そんなことにならないようにと心から願っております。
 犠牲者が万が一出たりすれば、小泉さんのことだから「屍を越えて、それ行け!」というようなことになりかねない。そんな日本にならないことを本当に心から願っております。
 正月に私の孫、小学生と幼稚園なんですが、2人来て遊んでいるのを見て、10年後、20年後、そして50年後の日本がどうなるんだろうか、やっぱり一番大事なのは平和であると強く実感しました。そのためにもこれからさらに頑張っていきたいという想いを強く致しました。

 もうひとつ、さっぽろ雪まつりに協力する自衛隊の編成完結式で師団長がこういう訓示をしました。「イラク戦争反対のデモや街宣活動が行なわれるかもしれない。デモが度を過ぎていると判断したときは撤収も含めて検討するので、そういった状況を逐一報告して頂きたい」という挨拶をしたんですね。
 雪像を作っている自衛隊員の皆さんにデモをかけたりするような市民はいないと思いますし、私どもは自衛隊にイラク派遣を命令した政府に対して抗議をしているわけであって、命令に従った自衛隊に抗議をしているわけではないのです。
 ただしかし、武装した組織的な集団の責任者が国民の基本的権利に関わる「表現の自由」についてこういう発言をして、しかもそのことについて調査をして報告をさせるということはやはり問題にしなければいけない大事なことだと思います。政治に対する介入であるとも言えるわけです。武装した集団の言動が大きくなっていったときに国はどうなるでしょうか?

会場内の様子 今日は私の母も来ております、この3月で満88歳になりますが元気で、さっきも「イスに座ったら」と言ったのですが「座らない」といって立っております。その母の兄に野呂栄太郎という、私にとって伯父がおります。札幌の北海中学を卒業して慶応大学に進み、小泉信三先生のもとで経済の勉強をされました。卒業論文が「日本資本主義発達史」というもので、それがいま岩波文庫に、もう古典みたいなものですが残っています。
 彼は学生時代、軍事教練が広がっていったときに反対運動を組織しました。そして有名な京都大学学連事件というのが1926年にありましたが、そこで治安維持法第1号の逮捕者になったのです。そのときあちこちの大学の学生も逮捕されました。
 当時は1931年に満州事変が起きて、1932年には5・15事件が起きるという時代で、軍の力がだんだん強くなり国を支配するようになっていきました。そんな中で彼は1933年に「戦争反対はけしからん!」ということで逮捕されて品川警察署に留置されて、そのまま帰らざる人になってしまいました、33歳だったと思います。
 当時は国家が一番大事な価値でした、個人の上に国家があったわけです。ですから戦争に負けて新しい憲法をつくるときにそこが逆転して、人間一人一人が大事なんだというように価値観を変えたんですね。それが戦前から戦後への日本の社会の一番大きな転換だったと思います。最近の日本を見ていると、あの歴史教科書問題など、再び国家に価値を置こうとする動きが強くなっていることを心配しています。
 小泉さんはイラク派遣を決めた閣議決定後の記者会見で、「国家の意思が問われている。国民の精神が問われている」という発言をしました。1936年に近衛内閣ができたときに、国民精神総動員運動というのが行なわれて、戦争協力キャンペーンが国民あげて広がっていく、そのときに国民精神という言葉がある意味では初めて使われました。そのことを小泉さんが言ったのです。
 国家が戦争を行っているとき、その戦争に反対するということはそのことだけで命をかけた行為だったのです。
 最近の世の中を見ていると、非常に真面目な政治の話もお笑い番組の中で消されてしまって、みんなが真面目に今の状況を考えようとしない、何となく「物言えば唇寒し」というような状況になっています。
 堀田力さんというさわやか財団の理事長で元検事の方が「学生は今どこで何をしているんだ!」と声を大にして言われたことがありますけれども、私たちが後の世代に「あの時の世代は一体どこで何をしていたんだ」と言われることがないように、やっぱりみんなで発言して行動していかなければいけない、そんな想いを強く致しております。

 昨年秋の衆議院選挙で全国を遊説して回りましたが、街頭演説が終わると人々が駆け寄ってきて「横路さん、あんたがいるから民主党を応援しているんだよ」という声をあちこちで聞きまして、これからも頑張っていかなければいけないという想いを致しております。
 この一年、本当にどうなるのかと心配でございますが、しかし心配だけしていても仕方がありませんので、小さな声でもみんなで声を出し合う、行動するときには行動する、そういう一年にしたい、その先頭に私も立っていきたいということを新年の決意として申し上げ、今日のご挨拶と致したいと思います。
 今日は本当に雪が降った悪路の中、しかも3連休の初日にこうしてたくさんの皆さんにお集まり頂きましたことを心から感謝申し上げて、ご挨拶と致します。
 ありがとうございました。

  2004年1月10日
横  路  孝  弘